アタッチメントについて

正月太りという難関にさしかかってます。



以下持論展開だから興味ない人は戻ったほうが吉。


ところで自分は今愛着についての卒論を仕上げてます。が、

先日のゼミクリパにて後輩に

「愛着のことは臨床的に考えるのは無理」

みたいなこと言われたのです。

「無理」というのはまぁ愛着は発達に完全に分類すべきで、臨床的な治療とか援助とかはできませんってことを指しているのだと思うけれども。

あたしは少しっていうかだいぶ腹がたちました。

あたしの研究をバカにされてるようだし、世の愛着研究をなんだと思ってるんだと。

その態度が気に食わなかったとか体育会的なものではなくて、今あっためてる卒論に関係するからむかついたのかな。

卒論なんていまのあたしにとっちゃ丹精込めて超大事にしてる子どもみたいなもんだしなぁ。

しかしながら口下手なあたしは一通り考えてまとめてからでないと上手く説明できないし、

しかも酔っていたということもあってすごくバカみたいな説明して

ますます愛着≠臨床みたいな確信を与えてしまったと思う。


言いたいのは、まずその狭い視野はなんだと。

愛着は発達だから云々て、なに範囲決めちゃってんだよと。

確かに、乳児期とか幼児期とか発達的観点で見ると「今現在」の援助は不可能だよね、「あの時こうこうこういうことしていれば良かったんですよー」なんて無理ですよ、そりゃ過去だもんさ。

しかしだよ、Bowlbyは幼少期の愛着は成人期以降まで継続していると提唱しているし、

例えばあたしの研究の場合幼少期(過去)の愛着型について聞いているものだけれども、「今現在」どう感じているか、ということに焦点を当てているのです。

博士の方と話していたけれども、「三つ子の魂百まで~」ということわざがあるように、愛着型の継続は沢山の研究で示されてきている。

でも完全なイコールでは結ばれなくて、今現在の発達課題とか周りとの関係において変化するもので、その点ではすごく研究のしがいがあるテーマだと思うんだけどなぁ。


愛着だって今現在において、介入していくことは可能です。

だから沢山の先行研究があるわけだし、臨床だけじゃなくて精神分析の分野まで広がりを見せてるよね。

研究がまた新しい問題を生むように今卒論を仕上げているのは楽しいです。

正直もっと勉強して知識広げて来いといいたくなりましたが小心者のあたしは言えなかったのですね。

自分で無理とか範囲決めちゃっていたら、新しい知識なんて吸収できるはずがない。と思うのです。


卒論は明日見直して印刷してあとは出すだけ。